歴史的事実や最近の事件を、役者を使ってドラマ形式で再現する映画やテレビドラマは、Documentary Dramaの略で「ドキュドラマ(Docudrama)」と呼ばれます。記録のない部分や末梢的部分はある程度脚色がなされますが、事実を忠実に再現することが基本になっています。これに対して、実話を背景にしながらフィクションの要素がより強いものは、「ドキュフィクション(Docufiction)」と呼ばれます。

最近の海外の映画・テレビドラマで、オープニングに「事実に着想を得た(inspired by facts)」という文句が出てくるものがありますが、これはドキュフィクションです。これに対し、「事実に基づく(based on facts)」という文句を掲げるものがあり、これは曖昧で、ドキュドラマの場合もドキュフィクションの場合もあります。

8月末の配信記事で厳しく批判した『開戦前夜』はドキュフィクションです。これに対し、前回の9月23日配信記事で高く評価したガザ戦争に関する二作品、『手に魂を込め、歩いてみれば』と『ヒンド・ラジャブの声』は、前者が純然たるドキュメンタリー、後者がドキュドラマです。私のこの二回の映画評で、「井上はドキュメンタリーとドキュドラマは評価するが、ドキュフィクションの価値を全く認めていない」という印象をもたれた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、これは誤解ですので、今回、若干補足させていただきます。


目次

  • ドキュフィクションにも傑作はある――『福田村事件』を推す
  • 『ヒンド・ラジャブの声』は「フィクション寄りのドキュドラマ」か? ――「映画道楽者」への応答

ドキュフィクションにも傑作はある――『福田村事件』を推す


私は、歴史的事実や現実の事件を背景にしながら、フィクションの要素を大きく取り入れる「ドキュフィクション」という表現ジャンルそのものの価値を否定しているわけではありません。要は、個々の作品の出来不出来の問題です。

ドキュフィクションが、記録された事実を基に、それが提起している問題をより鮮明に描くために、記録されていないストーリー、しかも末梢的とは言えない重い内容をもつストーリーをフィクションとして盛り込むことは問題なく、正当な創作活動です。しかし、ドキュフィクションは単なるフィクションではなく、ドキュメンタリーという形容詞がつくフィクションですから、記録された事実に明確に反し、記録された事実が含意する本質的な問題提起や教訓を歪曲し矮小化してしまうことは許されません。私が『開戦前夜』を酷評したのは、この作品がこの罪を犯していると考えるからです。

それでは、私が出来のいいドキュフィクションと考えるのはどんな作品か。比較的最近の映画を一つ、推奨させていただきます。1923年に関東大震災が起きた直後、デマに扇動された暴徒たちによる朝鮮人虐殺が広がり、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)で、香川県から訪れていた薬売りの行商団15人がその方言や服装で朝鮮人と間違えられて地元の自警団や村民らに襲撃され、幼児や妊婦を含む9人が殺害されました。一世紀後の2023年に、森達也監督がこの事件を映画化した作品『福田村事件』が全国公開されました。ドキュメンタリー作家である森達也が初めて制作した劇映画ですが、これは傑作です。

映画『福田村事件』公式サイト
井浦新&田中麗奈主演で、森達也監督が劇映画に初挑戦!1923年9月1日に発生した関東大震災から5日後、千葉県福田村で実際に起こった行商団9人の虐殺事件。村人たちはなぜ彼らを殺したのか―。関東大震災から100年、9月1日(金) テアトル新宿、ユーロスペースほか全国ロードショー!

この映画は福田村事件の真相に関する森達也の詳細な調査に基づいていますが、主人公ともいえる澤田智一(役:井浦新)と澤田静子(役:田中麗奈)の夫婦は完全に架空の存在として呈示されています(ここが、実在人物と重ならざるを得ない役柄を歪めて描写しながら、この人物は架空の存在だと言い張る『開戦前夜』と決定的に違う点です)。

智一は福田村出身ですが日本統治下の京城(ソウル)で教師を務めたこともあるインテリで、日本軍による「堤岩里(チェアムリ)虐殺事件」(1919年)の現場に居合わせた過去をもち、精神的鬱屈状態にあるなか、妻と共に帰省しました。妻の静子は現代的な自由奔放な性格で、自閉的になり性的能力も低下している夫への不満から、村の川の若き船頭(役:東出昌大)とその船上で不倫をしていますが、智一はそれを目撃しながら、黙認しています。

しかし、行商団への村民の襲撃が始まったとき、いち早くそれを止めようと行動を起こしたのは、この静子です。智一は、堤岩里虐殺事件の経験から集団的狂気の連鎖反応の危険性を知りながら、トラウマから行動をすぐに起こせず傍観者的姿勢に逃げようとし、静子に促されて動き始めたときにはすでに時遅しで、行商団は次々と虐殺されていきました。事態の危険性を察知しながら迅速に行動できない智一の現実逃避性は、村長、新聞社編集長などの姿勢としても描かれています。人間として奔放に生きる静子のような個人が、集団的偏見を超えて、朝鮮人であれ朝鮮人と誤解された人たちであれ、その生命が不当に奪われようとしているときに迷わず立ち上がれたのです。

この作品は、福田村事件についての記録された事実を歪めることなく、それが含意する歴史的教訓を掘り下げるために、この事件とその原因たる朝鮮人虐殺暴動が「なぜ起こったか」だけでなく、「なぜ止められなかったか」、さらには、「なぜ、その後の責任追及と事実の解明が徹底して行われなかったか」について、現在のわれわれ自身の自問も促す重い問題提起をしています。ここでは詳述しませんが、朝鮮人差別だけでなく、部落差別問題も、福田村事件には関わっていることが示唆される場面もあります。

『ヒンド・ラジャブの声』は「フィクション寄りのドキュドラマ」か? ――「映画道楽者」への応答

 
「映画道楽者」を自任する私の旧友が、前回配信記事を読んで、『ヒンド・ラジャブの声』に対する私の高い評価に同意しつつも、この作品は「フィクション寄りのドキュドラマ」ではないかと指摘しました。たしかに、この映画には、救急車の安全ルート調整のために時間をかけるコールセンター長マフディと、少女ヒンドの救済を急ぐオマールが度々言い争い、切れてトイレにこもったマフディとオマールが和解のために、スマホでゲームをやるシーンなど、通話記録から離れたように見えるドラマ的場面もあります。旧友の指摘は、ドキュドラマとドキュフィクションの区別に関わるので、私の応答の内容を以下に紹介しておきます。